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vol72   4 / 8

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エンディングノート エンディングノート 会員会員 重本重本 文生(あやみ)文生(あやみ) 正月三日、エン正月三日、エンディングディングノートノート(※(※11))を書き替えた。を書き替えた。19761976年、東海村在住の時、「乳がん」の手術を受年、東海村在住の時、「乳がん」の手術を受けけ、、その後暫くして「家族に言い遺したい事」を書いた記憶がある。その後暫くして「家族に言い遺したい事」を書いた記憶がある。19991999年「肺がん」年「肺がん」20002000年「胃が年「胃がん」の手術をした。肺がんの時はJOCの事故と重なり、少々ナーバスになって句に詠んだ。「遺言を書ん」の手術をした。肺がんの時はJOCの事故と重なり、少々ナーバスになって句に詠んだ。「遺言を書き替えようと髪洗う」き替えようと髪洗う」 33度の手術を通して抗がん剤度の手術を通して抗がん剤の投与は一度もなかったし、の投与は一度もなかったし、定期検査の度に一喜一憂しながらも今までこ定期検査の度に一喜一憂しながらも今までこうして元気に過ごせうして元気に過ごせていたていたので、病から解放されたと思い、卒寿記念にはどこかへ出掛けようかと考えので、病から解放されたと思い、卒寿記念にはどこかへ出掛けようかと考えたりしていた。その矢先、軽い腰痛で近くの整形外科に行くと、「この写真を持たりしていた。その矢先、軽い腰痛で近くの整形外科に行くと、「この写真を持って大きい病院に行きなって大きい病院に行きなさい」と言われた。「え!どうしてですか」と大きな声で聞いても「とにかく行くように」の医師の一点さい」と言われた。「え!どうしてですか」と大きな声で聞いても「とにかく行くように」の医師の一点張り張り。。 翌日早速大きい病院へ行ったところ、「ああこれ 翌日早速大きい病院へ行ったところ、「ああこれ、、乳がんの脊椎転移だね」と事も無げに告げられた。乳がんの脊椎転移だね」と事も無げに告げられた。実は実は1313歳で北満歳で北満(※(※22))から引き上げて来た為か、人の死に様を嫌と言う程見てきたので、どこか開き直から引き上げて来た為か、人の死に様を嫌と言う程見てきたので、どこか開き直っており、周りの人達からっており、周りの人達から「「よくそう平気でいられるよくそう平気でいられるねね」」と言われる程、三度のがん宣告の時も、手術と言われる程、三度のがん宣告の時も、手術の時も、の時も、一度も一度も泣くことはなかった。しかし泣くことはなかった。しかし、その時の、その時の私は転移を告げ私は転移を告げるる医師の言葉が入ってこない程医師の言葉が入ってこない程、、動揺してい動揺していた。後で少し落ち着いてみると、もう二度と手術は受けないのだからこのままそっと冥土のた。後で少し落ち着いてみると、もう二度と手術は受けないのだからこのままそっと冥土の土産に持っていこうと思っていたが土産に持っていこうと思っていたが、、「僕の手には負いかねる」と言った医者を離れ、柏「僕の手には負いかねる」と言った医者を離れ、柏市市のがんセンタのがんセンターを訪れた。「痛みが出たらすぐいらっしゃい」と優しい言葉を貰い、何とか平静に過ごすことがーを訪れた。「痛みが出たらすぐいらっしゃい」と優しい言葉を貰い、何とか平静に過ごすことができたできた。。 そのような折、以前から会員だった「日本尊厳死協会」主催の講演会に出席し、そこで初めて そのような折、以前から会員だった「日本尊厳死協会」主催の講演会に出席し、そこで初めて「「茨城茨城よろこびの会(レディスピア)よろこびの会(レディスピア)」」の存在を知った。茨城に来ての存在を知った。茨城に来て5050年年、、がんになってがんになって3030有余年、迂闊では有余年、迂闊ではあったがその存在を知り嬉しかった。そこで飯田会長かあったがその存在を知り嬉しかった。そこで飯田会長から、県内のがん拠点病院である県立中央病院のら、県内のがん拠点病院である県立中央病院のことなどを聞きました。それから間もなく、やはり痛みが出て、早速友部まで飛んで行き、かなり緊張ことなどを聞きました。それから間もなく、やはり痛みが出て、早速友部まで飛んで行き、かなり緊張していたが、ハンサムな担当医に、『「腫瘍内科」「放射線科」「緩和治療科」していたが、ハンサムな担当医に、『「腫瘍内科」「放射線科」「緩和治療科」のの集学的診療集学的診療(※(※33))がが貴方貴方のの病状に対応するので安心して下さい』と言われた時、先生のお顔が霞んでしまった。入院し、放射線病状に対応するので安心して下さい』と言われた時、先生のお顔が霞んでしまった。入院し、放射線をを1616回照射し、お陰で今は痛みも取れ、無事平成回照射し、お陰で今は痛みも取れ、無事平成2525年を自宅で迎えることが出来た。年を自宅で迎えることが出来た。 正月三日、エン 正月三日、エンディングディングノートを開いたが、ノートを開いたが、8080歳にもなると以前のようには後顧の憂いもなく、遺す歳にもなると以前のようには後顧の憂いもなく、遺すべき大した財産もなく、次のべき大した財産もなく、次の22点だけをしっかりと大きい文字で書き込んだ。点だけをしっかりと大きい文字で書き込んだ。 ○胃ろう ○胃ろう(※(※44))と気管支切開は行わないで欲しい。と気管支切開は行わないで欲しい。 ○葬儀は家族葬で行って欲しい。○葬儀は家族葬で行って欲しい。 初めて出席したレディスピアの帰途、会員の方々の優しさに触れて、いつしか重ねていたらしい身の 初めて出席したレディスピアの帰途、会員の方々の優しさに触れて、いつしか重ねていたらしい身の鱗が剥がれ落ちていくような思いだった。心から感謝申し上げたい。またいつ痛みが再発するか分から鱗が剥がれ落ちていくような思いだった。心から感謝申し上げたい。またいつ痛みが再発するか分からないが、その時は美人の主治医に全てを委ねて、家族と多くの方々に感謝しながら、穏やかに晩年を過ないが、その時は美人の主治医に全てを委ねて、家族と多くの方々に感謝しながら、穏やかに晩年を過ごしたい。ごしたい。 ※ ※11エンデエンディングノートィングノート・・・・・・人生の終盤に起こりうる万一の事態に備えて、治療や介護、葬儀などについての自分の希望や、人生の終盤に起こりうる万一の事態に備えて、治療や介護、葬儀などについての自分の希望や、家族への伝言、連絡すべき知人のリストなどを記しておくノート。家族への伝言、連絡すべき知人のリストなどを記しておくノート。 ※ ※2 2 北満北満・・・・・・旧満州国・日本が満州事変により中国の東北三省および東部内モンゴルをもつて作りあげた国家。旧満州国・日本が満州事変により中国の東北三省および東部内モンゴルをもつて作りあげた国家。太平洋太平洋戦争戦争 前は満州と呼ばれた地。現在の中国東北部 前は満州と呼ばれた地。現在の中国東北部。。(広辞苑(広辞苑よりより)) ※ ※3 3 集学的診療集学的診療・・・・・・専門的分野が異なる複数の医師や専門スタッフがチームとなって行う治療専門的分野が異なる複数の医師や専門スタッフがチームとなって行う治療。。 ※ ※4 4 胃ろう胃ろう・・・・・・自身の力で飲自身の力で飲み込み込みが困難になった時直接胃に栄養を流し込み栄養状態を保つ。みが困難になった時直接胃に栄養を流し込み栄養状態を保つ。 4 4