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がん体験記 がん体験記 (平成(平成25 年度がん予防推進員養成講習会で講演された内容です)年度がん予防推進員養成講習会で講演された内容です) 会員 八重樫 眞人 八重樫と申します。八重樫と申します。52 歳になる会社員です。歳になる会社員です。20052005年会社の健康診断で胸のレントゲンに白い影が年会社の健康診断で胸のレントゲンに白い影が写り 再検査を勧められたのが、再検査を勧められたのが、43 歳でした。数年前にも似たような指導を受け、再検査の結果歳でした。数年前にも似たような指導を受け、再検査の結果は問題無く、問題無く、この時一日この時一日40 本以上のヘビースモーカーでもあり、仕事柄、多少の異常が見つかっても大丈夫と不安を本以上のヘビースモーカーでもあり、仕事柄、多少の異常が見つかっても大丈夫と不安をごまかしていました。ごまかしていました。 再検査の結果、一番聞きたくない病名とは違い「再検査の結果、一番聞きたくない病名とは違い「マイコプラズマ肺炎マイコプラズマ肺炎」の診断に嬉しさすら感じていの診断に嬉しさすら感じていました。それから数ました。それから数ヵ月、徐々に咳がヵ月、徐々に咳がひど くなり繰り返し診察を受けましたが、咳止めの処方を繰り返くなり繰り返し診察を受けましたが、咳止めの処方を繰り返すだけでした。すだけでした。1年後の年後の2006 年 5月中旬、一番聞きたくなかった病名を聞くことになりました。人生初旬、一番聞きたくなかった病名を聞くことになりました。人生初のがん告知、右のがん告知、右肺気管部の気管部の「扁平上皮がんステージV扁平上皮がんステージVB」でした。一人息子の小学校入学式の翌月でした。でした。一人息子の小学校入学式の翌月でした。告知を受けた私は「死にたくない」では無く、「死ぬわけにはいかない!!」と心でつぶやいていました。告知を受けた私は「死にたくない」では無く、「死ぬわけにはいかない!!」と心でつぶやいていました。 この年、小学校に入学した息子は引っ越しで幼稚園時の友達が一人もいない学校へ通うこととなり「お この年、小学校に入学した息子は引っ越しで幼稚園時の友達が一人もいない学校へ通うこととなり「お父さんと同じ小学校へ行く」と毎日遊ん父さんと同じ小学校へ行く」と毎日遊んでいた 友達がいない友達がいない寂しさに、登校を渋る日が続いていました。寂しさに、登校を渋る日が続いていました。 そんな矢先に息子と家内を残しての入院には決意も鈍りましたが、この子が独り立ちするまでは「死 そんな矢先に息子と家内を残しての入院には決意も鈍りましたが、この子が独り立ちするまでは「死ぬわけにはいかない」その想いがどんなに辛い治療でも受けると決断させました。そのため、当時の国ぬわけにはいかない」その想いがどんなに辛い治療でも受けると決断させました。そのため、当時の国立がんセンターでの治療を選びました。最終検査の結果、採取した腫瘍が悪性ならば国立がんセンター立がんセンターでの治療を選びました。最終検査の結果、採取した腫瘍が悪性ならば国立がんセンターで治療を受けたいと、私にがんを告知した医師に希望を伝えました。この時の私はセカンドオピニオンで治療を受けたいと、私にがんを告知した医師に希望を伝えました。この時の私はセカンドオピニオンなど言葉も仕組みも知らず、「死ねない」ただその為に結果としてセカンドオビニオンを使っていました。など言葉も仕組みも知らず、「死ねない」ただその為に結果としてセカンドオビニオンを使っていました。告知か告知から暫くして希望通り、国立がん研究センター東病院での診察を受けることができ、私と家族に幸ら暫くして希望通り、国立がん研究センター東病院での診察を受けることができ、私と家族に幸運が訪れました。がんセンター医師の「茨城にも腕の良い医者はいるよ」の言葉と迅速な手配で運が訪れました。がんセンター医師の「茨城にも腕の良い医者はいるよ」の言葉と迅速な手配で、紹介 を受けた茨城県立中央病院の先生方対応に私と家族は本当救われまし。ステージV Bに変わりは ありませんでした。はじめに私に「がん」を告知した医師は、治療方法に対する質問に言葉はなく、辛ありませんでした。はじめに私に「がん」を告知した医師は、治療方法に対する質問に言葉はなく、辛い表情で首を傾げるだけで、それはまるで治療方法はないと受け取れる態度で、い表情で首を傾げるだけで、それはまるで治療方法はないと受け取れる態度で、『俺はこれからどうすれ俺はこれからどうすれば、家族にとって必要な時間を生きられるのか?ば、家族にとって必要な時間を生きられるのか?』表現のしよ表現のしようがない重しが心の中に落とされたよううがない重しが心の中に落とされたようでした。県立でした。県立中央 病院の先生方は「先日、病院の先生方は「先日、80 歳近い人があなたと同じ症状で手術をしたばかりだから大歳近い人があなたと同じ症状で手術をしたばかりだから大丈夫」と笑ってくれました。告知を受けてから数週間、忘れていた安心感を久しぶりで感じました。丈夫」と笑ってくれました。告知を受けてから数週間、忘れていた安心感を久しぶりで感じました。 治療に向けていくつかの検査をした結果、かなり難易度が高い手術だと告げられましたが、「全力で挑 治療に向けていくつかの検査をした結果、かなり難易度が高い手術だと告げられましたが、「全力で挑みます」との先生方の迷いのない言葉に、私は生きる為に手術を受ける以外の選択肢は考えませんでしみます」との先生方の迷いのない言葉に、私は生きる為に手術を受ける以外の選択肢は考えませんでした。私共夫婦のた。私共夫婦の7回目の結婚記念日に右肺全摘出の手術を受けました。予想に反してリンパ節への転移回目の結婚記念日に右肺全摘出の手術を受けました。予想に反してリンパ節への転移もほとんどほとんどなく予定よりもく予定よりも1時間ほど早く手術が終わりました。時間ほど早く手術が終わりました。 術後は見事に痩せ細り、点滴台を支えにしなけ 術後は見事に痩せ細り、点滴台を支えにしなければ歩けなく、看病の為ば歩けなく、看病の為、世界で一番苦労をかけたの世界で一番苦労をかけたのは妻であり、予想以上に負担(ストレス)を掛けたのは小学は妻であり、予想以上に負担(ストレス)を掛けたのは小学1年の息子でした。妻は毎日、息子を登校年の息子でした。妻は毎日、息子を登校させ家事を済ませてから、高速道路を片道させ家事を済ませてから、高速道路を片道1時間かけ病院に通い、息子の学校が終わる時間に合わせ、「ま時間かけ病院に通い、息子の学校が終わる時間に合わせ、「また明日」と 1時間の道のりを帰っていきました。土日のいずれかは息子と時間の道のりを帰っていきました。土日のいずれかは息子と2人分のお弁当を作り、お昼人分のお弁当を作り、お昼から夕方まで病室にいてくれました。術後、膿胸併発があり、退院予定が延び入院からから夕方まで病室にいてくれました。術後、膿胸併発があり、退院予定が延び入院から2ヵ月半後の退ヵ月半後の退院となりました。その後、繰り返しの治療で私自身も気持ちにゆとりが持てず、院となりました。その後、繰り返しの治療で私自身も気持ちにゆとりが持てず、息子には息子にはスポーツ少年スポーツ少年団や当たり前の小学校の楽しみを経験させてやれず団や当たり前の小学校の楽しみを経験させてやれず4年が過ぎてしまい、大きな負担をかけてしまいま年が過ぎてしまい、大きな負担をかけてしまいました。その時間を取り戻せないことが悔やまれます。した。その時間を取り戻せないことが悔やまれます。20 s以上痩せ、左肺s以上痩せ、左肺1つの体を世の中に戻すのにつの体を世の中に戻すのには、退院から更には、退院から更に2ヵ月 かかってかかってしま いましたが、無事社会復帰を果たした初日の仕事場の風は、これましたが、無事社会復帰を果たした初日の仕事場の風は、これ以上ないほど嬉しいものでした。以上ないほど嬉しいものでした。 6