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vol79   6 / 8

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会員会員 浜崎浜崎 昭一昭一 昨年 昨年77月月ににバスツアーに参加して、平成バスツアーに参加して、平成2626年年66月月2121日日ににユネスコ世界遺産に決定した群馬県富岡市ユネスコ世界遺産に決定した群馬県富岡市に所在する片に所在する片倉工業倉工業「「富岡製糸場富岡製糸場」」を見学しました。私にとってを見学しました。私にとっては、は、半世紀ぶりの訪問でした。半世紀ぶりの訪問でした。 昭和 昭和3232年年、、住み慣れた東京を離れ、富岡製糸場住み慣れた東京を離れ、富岡製糸場「「原料課原料課」」に就職しました。に就職しました。当時は、当時は、山と川に囲まれ山と川に囲まれたた長閑な町で、後にこの長閑な町で、後にこの製糸場製糸場が「が「世界世界遺産遺産」」になるとは、になるとは、全く全く想像も想像もできませんできませんでした。でした。 現在、 現在、工場工場は昔のままは昔のままでしたが、でしたが、一歩外に出ると町は高速道路沿いにあり、道も拡張され一歩外に出ると町は高速道路沿いにあり、道も拡張され、、みやげみやげ店、店、駐車場も駐車場もできて、すできて、すっかりっかり観光地観光地にになっていました。なっていました。 当時、 当時、私の配属された私の配属された原料課の仕事は、会社と契約した養蚕農家原料課の仕事は、会社と契約した養蚕農家にに健康な蚕を飼い健康な蚕を飼い、、良質な繭を生産良質な繭を生産して会社に出荷して会社に出荷するするまでの一連の養蚕技術を指導することでした。学校で学んだ実習と農家のまでの一連の養蚕技術を指導することでした。学校で学んだ実習と農家の実際の実際の現現場とは、かけ離れたもので場とは、かけ離れたもので、、指導するどころか学ぶことが多くあ指導するどころか学ぶことが多くありり、、ここでの経験はここでの経験はその後その後のの私の大き私の大きな糧と財産な糧と財産にになりました。なりました。 富岡製糸場の誕生は、徳川幕府が外国生糸の門戸を開いた安政富岡製糸場の誕生は、徳川幕府が外国生糸の門戸を開いた安政66年(年(18591859年)まで年)まで遡遡さかのぼさかのぼりります。当時、ます。当時、ヨーロッパで蚕の病気が広がヨーロッパで蚕の病気が広がり繭のり繭の生産量が落ち込んだこと、世生産量が落ち込んだこと、世界界一一の生産国、清(現中国)もアヘンの生産国、清(現中国)もアヘン戦争で蚕の卵、生糸が不足したため、需要先が日本に殺到し日本の卵戦争で蚕の卵、生糸が不足したため、需要先が日本に殺到し日本の卵・・生糸が売れ続け生糸が売れ続けましました。た。しかし、しかし、やがて粗悪品が出回るやがて粗悪品が出回るようになり、ようになり、日本は日本は評判を落として評判を落としてししまったのですまったのです。そこで、。そこで、日本日本政府は政府は、、伊藤伊藤博文、渋沢栄一博文、渋沢栄一らによりらにより、フランス人ポール・ブリュナ技師らを招き、建物の設計、フランス人ポール・ブリュナ技師らを招き、建物の設計からから工場の建設工場の建設、技、技術指導術指導の全ての全てを任せを任せ、、明治明治55年(年(18721872年)年)にに官営工場が誕生官営工場が誕生しました。しました。働く工女は、武家の子女達で働く工女は、武家の子女達で、、将来の蚕糸振興推進の担い手を育成する養成所でもあった将来の蚕糸振興推進の担い手を育成する養成所でもあったのですのです。当時。当時ででは考えられなかったは考えられなかった88時間労時間労働働や、窓ガラス(現存)、操糸機をフランスから輸入しや、窓ガラス(現存)、操糸機をフランスから輸入しました。ました。電気が引かれる電気が引かれる大正大正99年(年(19201920年)ま年)まで、で、窓ガラスから窓ガラスから太陽の光を取り入れ太陽の光を取り入れ、、石炭で操糸機を動かしてい石炭で操糸機を動かしていましたました。。 官 官営工場は、営工場は、明治明治2626年年(1893(1893年年))にに民間民間に払い下げされに払い下げされ、最終的には、最終的には片倉製糸紡績片倉製糸紡績(株)に引き継がれ(株)に引き継がれました。ました。昭和昭和6262年年(1987(1987年年))ついにその操業を停止しましたついにその操業を停止しましたが、が、建物は大切に保存され建物は大切に保存され、平成、平成1717年年にに富富岡市に寄贈され岡市に寄贈されましたました。。世界遺産に指定された理由世界遺産に指定された理由についてについては、下記をご覧ください。は、下記をご覧ください。 6 6 富岡製糸場ものがたり 富岡製糸場ものがたり 東繭倉庫 東繭倉庫